カンタベリーから

文学研究でイギリスに大学院留学をしている20代男性の日記です。ポストコロニアル文学・理論、ナショナリズム理論、グローバル化時代のネーション、コスモポリタニズム、現代日本文学、などに関心があります。ですがブログは学問内容とあまり関係ありません。猫好き。料理をよくします。

パノプティコン、パンデミック、プロパガンダ

ケント大学の図書館は工事中である。全体の三分の一ほどが建設中で使えない。だから学生の全体数に比してスペースが足りていない。試験前ともなるとパソコンのある部屋は満席で、閲覧用の机にしてもあちこちうろうろしてやっと空きが見つかるほどである。工事中の部分が完成するのは2015年であり、僕が完成部を利用することはない。払った学費の一部があの工事に費やされているのだと想像すると腹立たしくもなる。ましてやEU外からの留学生の学費は通常の2倍以上するのだ。受ける教育内容と利用可能な教育施設が全く同じにも関わらず。これは人種が国籍に取って代わっただけの制度的差別であって、植民地経営をやめた現在も帝国主義の亡霊はこうして健在である。

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入学してすぐ気がついたんだけど、ケント大学の建物はみな異常に複雑に設計されている。まず外から見て全体像が把握できる角度がほとんどない。中に入ると全体像はますますわからず、似たような見かけの廊下が迷路のように続く。両端には開けていいのかどうかわからない扉が並び、学生の居住エリアもあるんだけどどこからどこまでがそのエリアなのかわからない。ある建物の食堂に行こうと思って、歩いて行って探したけどどうしてもたどり着かず諦めたこともある。違う階で似た造りになっている場所がいくつもあって、また同じところに来たのかと錯覚する。外の様子がすぐわかるような窓が廊下にはなくて、自分が建物のどこにいるのか直観的につかめない。どうしてこんな設計なのだ。大学の校舎が複雑なのはこのケント大学に限ったことではなくて、東大の本郷キャンパスに行ったらあまりに入り組んでいて面食らったのを覚えている。

 

統制と管理のシステムとしてのパノプティコン(一望監視)は有名だ。もっとも効率的な刑務所の設計としてベンサムが着想し、のちにフーコーが近代の権力作用の比喩として用いた。中央の一点から常に監視されることで囚人は規律正しい従順な身体を構成する。刑務所に限らず病院・学校・工場などでも同様の監視体制が効率をあげるために導入された。いずれ監視される者は監視する視点を内面化するようになり、個人の心理レベルで権力が作用する(というのがむかし授業で習ったこと)。

 

それでは高等教育機関である大学の異常に複雑な設計は何を意味するのか。中央集権的な権力への抵抗?あるいは権力の分散?もしくはカフカが戯画化するような官僚制だろうか。それとも象牙の塔であることを保証する仕組みだろうか。考えてみれば学問をやるとは複雑な建物の中で迷うようなもので、こっちがきっと面白い、と見当をつけて研究室の扉をたたき、いろいろ学んだことを踏まえて次はここに行ってみようかとまた別の研究室に行き、これを繰り返すうちに知識が増えて人脈が出来、最初は不可解な迷路に思われた学問の全体像がおぼろげながら立ち上がってくる。複雑な建物で迷うとは初学者の経験の見事な暗喩かもしれない。

 

大学の複雑な建物が気になるのは、その対極のような建物を目にするようになったからだ。僕が18歳で首都圏の私立大学に入学したとき、もともと学生会館があった場所に新しい校舎が建設中だった。学生会館と言えば、学生の自治によって運営される、サークルの部室のある建物であり、左翼活動の根城、タテカン製作所である(実際に見てないのでよく知らないけど)。アメリカ留学を終えて3年生になって帰ってくると新しい校舎が完成していたんだけど、それまでの大学の建物のイメージからかけ離れていて驚いた。外壁はほとんど全面ガラス張りで、中に入ると教室や自習室が廊下から丸見えである。建物の中央は一階から吹き抜けになっていて、エスカレーターまであり、エレベーターも壁が半透明。トイレは各階違うデザインで、大きな講演などが可能な最上階のホールは高級感のある木目仕様である。開放感、透明感、清潔感、適度な高級感が特徴だ。

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これは何かに似ている、何だっけ、と当時しばらく考えて、答えが出た。ショッピングモールだ。どこの国に行っても大きなショッピングモールは出来るだけ開放感を与えるように出来ている。中央には吹き抜けを作って遠くの店も見えるようにして、エスカレーターやエレベーターで移動する間も消費欲が冷めないように広告や店舗が視界に入るようにする。開放的な空間の中心にはカフェがあったりして、ここでも店舗がよく見える。バンコクや上海のショッピングモールに行ったとき、消費から目を背ける余地が無いようによく設計されていると感心した。他の大学と比較してないのでなんとも言えないが、志願者の確保にしのぎを削る私立大学にとって大学の建物を魅力的に見せるのはとても重要なことなのだろう。 身もふたもなく言えば、建物の構造からは「どうぞ教育を消費してください」というメッセージが放たれている。パノプティコンと違って、監視の視点があるべきところは空白の吹き抜けだが、隠れる場所は無く、早くガラス張りの教室にどれかに行き着かなければならない、と自然に思いこむ設計なのではないか。迷路のような建物を明確な目的無くうろうろして、知らない人や知識と偶然に出会い、自分が面白いと思うことを時間をかけて発見する、というややこしくめんどくさいプロセスは省かれる。

 

ケント大学の複雑な建物を見て、これも何かに似ている、何だっけ、ときのうしばらく考えて、答えが出た。ゲームの「バイオハザード」シリーズの屋敷や警察署である。「バイオハザード2」は中学校のころ好きで、クリア後もいろいろな要素が面白くてやり込んだ。

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製薬会社の「アンブレラ」が開発したゾンビウイルスが蔓延して壊滅状態となったラクーン・シティに2人の主人公がやってきて、ゾンビと戦いながら警察署を探検し、最終的にウイルスの研究施設に行き着いて自爆装置を起動させて脱出する、という話。警察署の建物はものすごく複雑で、ゾンビを倒す傍らで鍵を見つけたり暗号を読み解いて先に進んで行く。こんな複雑な建物が実際にあるかよ、と思っていたが、ケント大学の建物はこれと同じくらい意味不明に複雑である。 

建物の複雑さが喚起するのは、ドアを開けた先に何があるかわからないという感覚であり、このゲームの場合ゾンビやもっとヤバい化け物などにやられてしまう恐怖である。ゾンビそのものが生理的に気持ち悪くて怖いが、それにいつ出会うかわからないという要素が恐怖を増幅する。建物からいつになったら脱出できるかわからないという事実も不安をかきたてる。「タイラント」という化け物が壁を突き破って執拗に襲ってきたりして、逃げ場の無さが恐ろしい。

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「バイオハザード」は3までやって4以降はやっていないが、プレイ動画などを見ると複雑な建物を探検するという要素は次第に薄くなっているように見える。謎を明かしてはどんどん先に進んで行って、すでに通り過ぎたところに戻ることはあまり無さそうだ。建物の狭い空間よりもより開けた場所での対決が主流になっているようだ。5のラストなんかは、施設から飛行機でどっかの火山島まで飛んでって、とんでもない化け物になった敵ウェスカーと対決する。

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映画版の「バイオハザード」シリーズにも同じ傾向はあって、1は研究所の狭い空間が舞台であり、2では舞台は一つの街全体に拡大されるが、その街は隔離されていて出られないという感覚がつきまとう。しかし3になると人類がほとんどゾンビになったアメリカの荒野で話が始まって、メインのゾンビとの戦いは砂に埋もれたラスベガスの開けた空間で起こる。4では建物の屋上から飛行機で一気にゾンビの群れから逃げたりするし、5に至っては戦闘が起こるのは氷河の下に人工的に作られた街であり、架空のタイムズスクエアや渋谷を通り抜けながら話が進む。


Resident Evil All Trailers 1 2 3 4 5 (Full) - YouTube

非常に大雑把に捉えて、ゲームでも映画でも時間が下るにつれて主人公のモビリティが増し、移動の規模も大きくなっていく。舞台はどんどんグローバルになる。ゾンビの表象もそれに対応するように変化して、狭い建物をうろうろする姿から集団でダッシュで襲いかかってくる姿に変わる。建物を歩いていて出会ってしまう恐怖から、大群になって一気に襲われて彼らの一部になってしまう恐怖への移行がある。

 

大群のゾンビに一気に襲われる恐怖というのは、ゾンビになる原因が製薬会社の作ったウイルスであるという最初の設定から必然的に生まれたのだとも言える。いつからかわからないが、ゾンビ映画においてウイルス感染がゾンビ化の原因とされるようになった。こういう映画の喚起する恐怖は、国境を関係なくウイルス感染が広がる現象、つまりパンデミックへの恐怖と連動している。人が自由に行き来するグローバル化時代の負の側面としてパンデミックは最たるものだが、ゾンビ映画はこの種の恐怖に新たな市場を発見したのだろう。

 

なんか連想ゲームみたいになってきたが、それでさらに思い出したのがブラッド・ピット主演のゾンビ映画「World War Z」である。公開当時映画館で見て、この前イギリスに戻ってくる飛行機の中でも見た。


『ワールド・ウォー Z』予告編 - YouTube

ゾンビ化のパンデミックが広がる中で主人公ジェリーは国連からの要請を受け、世界を駆け回って対策法を探ることになる。知恵と経験と判断力でゾンビの群れからぎりぎりでまぬがれながら次々と飛行機に乗って各国に移動する姿は、ほとんどグローバル化時代のビジネスマンのカリカチュアである。文部科学省はスーパーグローバル人材の見本としてブラピ演じるジェリーを据えたらいいんじゃないか。

異常な早さで広がるパンデミックに組織的な対抗をし得ているのは北朝鮮とイスラエルだけだ。北朝鮮はウイルスが広がる前に国民全員の歯を強制的に抜くことで感染を防ぎ、イスラエルはユダヤの知恵によりパンデミックを奇跡的に予知し、エルサレムの周りに巨大な壁を作ることで秩序を維持している。だがそのエルサレムも騒ぎを起こしたアラブ人のせいでゾンビに陥落してしまう(アラブ人は間抜けで迷惑、という一つ目のプロパガンダ)。

エルサレムが陥落するときある少年だけゾンビに襲われなかったという事実から、病原菌を持った者をゾンビは襲わないのだとジェリーは推論し、ウイルスの研究所で自らの身体をもって実験する。推論は当たりで、研究所の壊れた自販機からマウンテン・デューを一本取ってぐいと飲んだあと、彼はダッシュするゾンビの群れを素通りする(マウンテン・デューはうまいよね、という二つ目のプロパガンダ、というか宣伝)。同じ要領で、病原菌を注射し次いで対応するワクチンを投与するという方法によって人類はゾンビの危険から逃れられるようになり、ジェリーは国連の保護下にある家族のもとに帰れてめでたし、となる。

 

しかし考えてみれば、ここに三つ目の大きなプロパガンダがあって、つまり製薬業界のそれである。病原菌とワクチンのセットがゾンビ化への最良の対抗策となるのだから、経済的な利得を得るのは製薬業界に他ならない。ジェリーが為したのは、表面的には家族と再会を果たすための最善の努力だったが、実際にやっているのは国連と製薬業界の橋渡しであった。製薬業界はこうして国家の制限を越えて国連とつながり、まさに人類全体から利益を吸い上げる。この大作映画が製薬業界のプロパガンダとして機能するよう狙って作られたかどうかは知らないが、実際に製薬業界が利益を得るための理想のシナリオをこの映画は確実に描いている。そして主人公の勇敢な行動を家族愛によって説明し結末にもそれを前景化することで、そのシナリオを提示しつつ隠蔽している。

 

架空のグローバルな製薬会社「アンブレラ」の悪徳を全面的に描いてエンターテイメントにした「バイオハザード」と、製薬業界が儲ける理想的なシステムを描きつつ隠蔽する「World War Z」はコインの裏表である。僕は後者のほうが怖い。

 

図書館が工事中というところから連想ゲームでここまで来た。論文書いてると思考が脱線したがる。