カンタベリーから

文学研究でイギリスに大学院留学をしている20代男性の日記です。ポストコロニアル文学・理論、ナショナリズム理論、グローバル化時代のネーション、コスモポリタニズム、現代日本文学、などに関心があります。ですがブログは学問内容とあまり関係ありません。猫好き。料理をよくします。

近衛兵と群衆、イーハトーブとロンドン

ロンドン中心部の現代美術のギャラリーで開かれた翻訳についてのシンポジウムに行ってきた。朝10時の開始に間に合うには7時にカンタベリーを出るコーチに乗らねばならず、寮からコーチ乗り場までのバスはそんな早くにはまだ出てないから、歩いて乗り場のある街まで下りていくことになる。そうすると部屋を出るのは6時であり、そのためには5時起きしなくてはいけなかった。だから夜にシンポジウムが終わったときはとても眠くて、帰り道はなんとなくこっちだろうと思った方向にふらふら歩き出したら逆に行っていた。方向転換してあらためて帰りのコーチが出るVictoria Coach Stationに向かったんだけど、そうするとバッキンガム宮殿前の広場を横切ることに気づく。金曜の夜の宮殿前広場では奇妙なことが起こっていた。まだ明るいのは日が長くなってるからで、時刻は20時半くらい。

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ちゃんとしたカメラが無くてiPhoneで撮影した写真だけど、要するにサイクリストたちが宮殿前広場を占拠している。特定の政治的主張をしているわけではなくて、とにかく自転車で走り回ったり、大音量で音楽をかけて踊ったり、マリファナ吸ったりしている。God Save the Queenを流しながらみんなで宮殿に向かって中指立てたりもしていて、柵のむこうにいる衛兵を挑発する者もいた。

 

雰囲気は祝祭的で人数もあまりに多いわけでもなかったからこれ以上エスカレートするようには思えなかったが、バッキンガム宮殿前広場に群衆が押し寄せる例は今までにもあって、去年の11月には緊縮財政に反対する大きなデモが起きている。このときは宮殿内に花火が打ち込まれたのだ。 警官隊との衝突があり3人の逮捕者が出た。

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Russell Brand joins Anonymous protesters as fireworks are fired at Buckingham Palace | Mail Online

宮殿前でしばらく見物してて感じたのが、柵のむこうにたたずむ近衛兵の頼りなさである。宮殿の衛兵交代式は言わずと知れたロンドン観光の目玉であり、僕は行ったことないけど場所取りが大変らしい。その衛兵は平時はじっとたたずみ、ときどき10メートルくらい横まで歩いていってまた戻る、を繰り返している。

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騒いでいる群衆がもっと不満を溜め込んだはるかに敵対的な集団で、もしも一斉に柵にはしごをかけて乱入してきたら彼はどうするだろうか。立派な銃を肩にかけているが、撃つのか。そもそも、真っ赤な目立つ服を着て、どう考えても前が見えず動きにくい変な長い帽子をかぶったあの衛兵はかなり非戦闘的だ。どうせならもっとたくさん配置すればいいのにと思うが、あのでかい宮殿を形式のうえでも守っている衛兵が平時はたった2人である。まあ見えないところにもっとたくさんいるのだろうけど、と思っていたら、よく見ると柵の向こう側の見えるところにいた。ただし赤くてかわいい制服を着た近衛兵ではなくて、もっとでかい銃を抱えて実戦的なマジ武装をした兵士たちである。写真は撮れなかったが、そのまま戦場にいてもおかしくないような雰囲気で、彼らは近衛兵のように決まった動きをしなくて良いらしく、ときどき柵の際まで行って威嚇していた。この2種類の衛兵の奇妙な同居はなんだろうか。

 

近衛兵の見かけ上の非力さは、たぶん帝国支配の強固さを逆説的に象徴していたのではないか。植民地の経営と収奪が安定しているので、宮殿を守る兵士は限りなく形式的で儀礼的なのが良い、ナチスの全体主義的な軍事パレードと違って、優美な衛兵の姿が帝国の力と偉大さをあらわすのだ、という感じ。でも一方で、現代のロンドンでは実際にデモや暴動が起きていて、それに対処するには威圧感を持った強い兵士や警官が必要になる。しかしそれを配置した結果、シンボルとしての近衛兵のバカらしさが露見している、とも言える。帝国の偉大さを象徴していた近衛兵は現代のロンドンで無力なのだ。それは帝国の歴史を正しく点検せずその栄光にしがみつくある種の国民感情がバカげていることも暗に知らせている。

 

宮沢賢治の「注文の多い料理店」で山猫に食べられそうになる2人の猟師は、「すつかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで」いる。「注文の多い料理店」は絵本や表紙絵や映画など無数にビジュアル化されているが、猟師の格好をまさに近衛兵そのものとして描いている場合がたくさんある。

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文明をまとった猟師たちに対して山猫が寓意的にあらわすのは、森、動物、原住民、被植民者、などである。山猫は文明の詐術を逆手に取り、猟師が自ら装備を解くよう仕向ける。注文の多さを格式の高さと勘違いした猟師たちは危うく山猫に食べられそうになるが、連れてきた犬に助けられ命拾いをして帝国の首都東京に無事帰る。でも与えられた恐怖の痕跡は2人から消えることはない。

さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。

 「ドリームランドとしての日本岩手県」であるイーハトーブはイギリスの植民地ではないから、ここで「イギリスの兵隊」は寓意的で、 文明と帝国による収奪と支配一般をあらわしているのだろう。侵入と支配を受けた動物を含む原住民たちはすでに文明の論理を学んでいて、その上で文明人をだまして復讐を果たそうとする。それはイギリスの兵隊の服を自発的に脱がせるという象徴的な行為を通して為される。宮沢賢治の作品群が植民地的環境から生成したクレオール文学だというのは、西成彦の『森のゲリラ 宮澤賢治』から学んだことであるが、昨夜のバッキンガム宮殿の近衛兵と「注文の多い料理店」の「イギリスの兵隊」が自分の頭の中で重なったのだ。あの制服と兵士を通して帝国の凋落や文明への復讐が表現されている。

 

Paul GilroyはAfter Empire: Melancholia or Convivial Culture? (2004, 未訳)の中で、多文化・多人種の国になったイギリスはいまだ帝国主義の恥ずべき痛ましい歴史と罪悪を直視することができず、「ポスト帝国主義のメランコリー」に陥っていると指摘している。他にも世界のあちこちで戦争してきたにもかかわらず、ナショナリズムが喚起されるときのシニフィアンはいつもナチスとの戦いだ。植民地をめぐる戦争、フォークランド紛争、アフガニスタン紛争などは過去の栄光として美化することもできず、抑圧されて国民の記憶に組み入れられない。それが現代の人種差別の温床にもなっている。

Once the history of the Empire became a source of discomfort, shame, and perplexity, its complexities and ambiguities were readily set aside. Rather than work through those feelings, that unsettleing history was diminished, denied, and then, if possible, actively forgotten. The resulting silence feeds an additional catastrophe: the error of imagining that postcolonial people are only unwanted alien intruders without any substantive historical, political, or cultural connections to the collective life of their fellow subjects. (After Empire, p.98)

だいたい字義通りに訳すと、

ひとたび帝国の歴史が不快・恥辱・困惑の源となると、その複雑さや多義性はただちに脇に追いやられた。そうした感情が克服される代わりに、あの不穏な歴史は縮小され、否定され、そして可能な場合には積極的に忘却された。その黙殺の結果、さらなる惨状が生じたのだ。すなわち、旧植民地に起源を持つ人々は、彼らの同胞民[ここではイギリス国民]の集合的な生とは実質上の歴史的・政治的・文化的つながりを何も持たない、望ましくない異質な侵入者にすぎないという誤った想像である。(拙訳)

要するに、現在のイギリスはナチスとの戦いと勝利という疑いのない栄光によってのみネーションとしての誇りを保っていて、そこでは純粋な"whiteness"が暗に想定され病的に生き延びている。植民地主義の結果イギリスに住んでいる移民の2世3世の存在にもかかわらず、植民地主義に関する歴史や文化を組み入れた国民文化は未だ満足に描かれていない。しかし現れつつあるのが"convivial culture"(お祭り気分の文化)とギルロイが呼ぶ新しい都市文化であって、例としてヒップホップ被れの白人が真面目な人にインタビューする「Da Ali G Show」というコメディ番組などが論じられている。昨夜見たサイクリストの群衆が「お祭り気分の文化」なのかはわからないけど、こういう騒ぎとかデモはこれからも起こっていくのだろう。

 

ちなみに「Da Ali G Show」はYoutubeにたくさんアップされている。僕が観た中で最もおバカな映画『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』のSacha Baron Cohenがやっていたやつだ。


Ali G - the police - YouTube